地域情報

玉川上水

玉川上水は羽村の堰で多摩川より取水し、武蔵野台地を東流します。四谷まで全長約43キロメートルにも及びます。途中第3水門(取水堰の下流約500メートルに位置)から埋設鉄管によって山口貯水池(狭山湖)・村山貯水池(多摩湖)へ送水され、さらに残りの原水は小平監視所から東村山市にある東村山浄水場へ管路で送水されます。玉川上水の導水路としての役割は野火止用水との分岐点でもあるこの小平監視所で終了し、その先は清流復活事業により昭島市にある「多摩川上流処理場」からの再生水が流れます。しかし、杉並区久我山で開渠部分は終了し、以降の下流部ではほぼ暗渠化してしまいます。流域は羽村市、福生市、昭島市、立川市、小平市、小金井市、武蔵野市、西東京市、三鷹市、杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区となります。

玉川上水の開削

承応元(1652)年、江戸幕府は江戸の飲料水不足を解消するため多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。
玉川兄弟像
羽村の堰にある玉川兄弟像
工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります。)、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)で、引水工事は困難を極め、何度か失敗を重ねたようです。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の分水線(山で言うと谷に挟まれた山頂など高い部分の連なり尾根)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。
翌年6月には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。 当初資金として公儀6000両が拠出されましたが、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたといいます。兄弟はこの功績によって玉川の姓を許され、200石の扶持米と永代水役を命ぜられたのです。玉川上水は多摩川から引水しているにもかかわらず、表記がそれぞれ異なっているため、「玉川上兄弟」が完成させたためそう名付けられたと考える人もいますが、順序としては逆です。あくまで玉川上水を完成させたために玉川性を名乗るようになったという事で、結局は「多摩川の上水」という事から「たまがわじょうすい」と呼ばれ、どういうわけか表記は「玉川」になったと考えるのが自然だと思います。

玉川上水と分水

武蔵野台地は青梅を扇頂とする扇状地を形成していて、西部では水の便が良くなく、江戸時代前期には武蔵野台地西部の慢性的な水不足の解消と大都市江戸への供給を目的として玉川上水が開削されました。この水路のルートは武蔵野台地における多摩川水系と荒川水系との分水線をたどっていて、そうすることによって遠く江戸市中まで上水を引くことができたのです。

分水線は山で言えば尾根に当たり、言わば武蔵野台地の尾根を流れる玉川上水は高い所を流れるため分水が可能だったのです。玉川上水開削の功により明暦元(1655)年、川越城主松平信綱が野火止用水を許されると、相次いで分水が引かれ、周辺部では新田開発が行われるようになりました。そうして発展したのが現在の立川市北部の砂川村であり、小平市の名称の由来となった小川村です。玉川上水そしてそこから引かれた分水がいかに重要な役割を果たしたのかについては「砂川分水(砂川用水)」をご参照いただければおわかりいただけると思います。かつて村の形成が可能であったのは、平坦な砂川町、小川町の一帯ではなく、狭山丘陵の麓(ふもと)、豊かな湧水の湧く地域だったのです。乾いた武蔵野台地西部での生活は苦しく定住は難しかったであろうと想像されます。集落が形成された時期はあったでしょうが、継続的に発展し村に至るまでは至らなかったのでしょう。

状況がかわったのはまさにこの玉川上水が完成してからです。狭山丘陵という水源の麓、岸村より、開拓者が現れ、それぞれの地に旅立ちます。開発の時期は前後しますが、玉川上水からの分水が新田開発を可能にし、そこに村が形成されていきました。

砂川村と立川市

立川市の原形は柴崎村とされます。現在の立川市の南部にある柴崎村が発展し立川村、そして立川市となりました。北部で発展した砂川村がその後砂川町となり、やがて立川市に編入されます。今でこそ一つの市となったそれぞれの村が実はまったく異なる発展の経緯を辿ったというのはとても興味深い事ですね。詳しくは「柴崎村から続く立川の歴史」「立川北部の砂川村と玉川上水の関係」ご覧いただくとして、ここでは簡単にお話しします。

柴崎村は崖線と呼ばれる崖が集落の形成を可能としました。崖から湧き出す水を求めて集落ができ、特に水が豊富な場所では農耕も行われ、早い時期から村が形成されました。崖下から多摩川までの低地も住み易い環境ではあったのでしょうが、何度となく流れを変えてきた多摩川は時に脅威となって人を苦しめた事でしょう。その点、崖の上に住いを設ければ、多少の氾濫でも安心であったであろうことは想像に難くありません。早くから有力な豪族がいた事、中央線という重要な鉄道が敷設されたことなど等、順調に発展して立川市の基礎を作り上げました。

砂川村はと言うと、集落などの形成期はかなり早い段階から遺跡として見つかってはいますが、それが継続的に発展してきた様子は見られません。そもそも砂川という地名の由来からして、水が少ない土地だった事を表しています。唯一の水源と言える「残堀川」は当時「砂の川」と呼ばれるほど水量のない川だったようで、それが砂川という地名となったというのです。このエリアでは、水の確保もままならず、苦しい生活を送っていたのではないでしょうか。状況が一変するのは玉川上水が完成してからです。念願の水が確保され、そこを起点として村が発展したと考えられます。玉川上水ができたのが江戸時代ですから、柴崎村の形成からかなり時間的開きがあるわけです。

衛生問題と近代水道の建設

江戸時代から運輸の中心は舟運でした。人馬に比べれば船の輸送力は圧倒的で、江戸時代にも地元の有力者から何度か玉川上水の通船願いが出されましたが、上水の水質悪化を案じた幕府が許しませんでした。
ところが、明治に入ると政権が変わり、その混乱の中で通船が許可され、農産物等の水運が可能になってしまいます。しかし、水質の悪化は避けられず、明治5(1872)年5月、わずか2年で通船は廃止されました。この通船をきっかけとして砂川分水が統合され今の砂川用水となった事は「砂川分水(砂川用水)」に記しました。
 明治19(1886)年、コレラが流行すると、玉川上水の水質がいかに良くても、末端の木樋に汚水が流入するようでは仕方がありません。浄水場で原水を沈殿、ろ過し、鉄管を使用して加圧給水する近代水道の建設が急務となりました。水源地としての多摩地域(三多摩地区)の管理の重要性が認識され、明治26(1893)年三多摩地区が神奈川県から東京府に移管されます。
そして、明治31(1898)年には淀橋浄水場が完成します。玉川上水を導水路としてそのまま使用し、代田橋付近から淀橋浄水場までを結ぶ新水路を敷設したのです。

現在の玉川上水

昭和40(1965)年、武蔵水路が完成し、水不足解消の切札として利根川の水が東京へ導かれました(現在東京都の水源は、ほとんどが河川水で、78%が利根川及び荒川水系、19%が多摩川水系となっています)。淀橋浄水場は廃止となり、その機能は東村山浄水場へと移されました。原水は小平監視所から管路で東村山浄水場へ送られ、玉川上水の導水路としての役割も野火止用水との分岐点でもある小平監視所で終了しました。 玉川上水清流復活説明板
小平監視所すぐ下流にある標識以下抜粋

「この水は、昭島市にある東京都流域下水道「多摩川上流処理場」からの再生水です。これによって、水のなくなった「玉川上水」に清流がよみがえりました。わが国の清流復活の先駆けとして全国の「甦(よみがえ)る水100選」に選ばれました。」

玉川上水清流復活
この滝から流れているのが再生水。玉川上水緑道を歩いていると気づく方もいらっしゃるでしょうが、正直この地点以降玉川上水の匂いが少しきつくなります。いわゆる清流と言う雰囲気は小平監視所までなんでしょうね。玉川上水小橋
上水小橋。玉川上水では珍しく、親水性のある場所です。橋の下を鯉がたくさん泳いでいます。玉川上水小橋より
水に触れられますが、私は触れた事はありません。

爆発的に人口が増えた東京の水源確保が急務とされる中、それまで多摩川水系を主な水源としていましたが、利根川水系の水を導入し、徐々に依存度を高めていきました。淀橋浄水場の廃止後、導水路としての使命を終え、流れの途絶えていた小平監視所下流の玉川上水は、玉川上水を愛する人々の尽力もあって昭和61(1986)年、清流復活事業により流れが復活しました。
東京都下水道局多摩川上流水再生センター(昭島市)で処理された再生水は、約18キロメートル下流の高井戸の浅間橋付近まで流れ、そこから管路で600メートル北の神田川に合流しています。
なお、野火止用水(昭和59(1984)年)及び千川上水(昭和63(1988)年)も清流復活事業により流れが復活しています。
小平監視所の下流左岸に玉川上水と並行して流れている小平分水(新堀用水)は、明治3(1870)年、通船準備のため野火止用水から千川上水までの9本の分水を一つの分水口にまとめるために掘られたもので、今もその流れを見ることができます。

歴史環境保全地域の指定

昭和40(1965)年、淀橋浄水場が廃止され、通水されなくなった玉川上水の一部が暗渠化されると、地域の人々を中心に、玉川上水保全の運動が起こりました。
都市化の進展とともに、宅地化され緑の少なくなった武蔵野台地にあって、玉川上水は、身近な水と緑の空間として、また、郷土史、文学史等の歴史的背景からも、流域の人々に特別な愛着を持たれています。
そこで、東京都では、「東京における自然の保護と回復に関する条例」に基づき、平成11年3月、玉川上水を歴史環境保全地域として指定し、歴史的価値の高い水路、法面、多摩地域から都心に伸びる樹林帯としての自然環境、水辺環境などを後世まで保全することとしました。
なお、平成14年に区域が拡張されています。

※保全地域・・・玉川上水路の羽村取水口(羽村市)から新宿区(四谷大木戸)までの区間の水道局管理用地のうち開渠部分

国の史跡指定と計画の策定

竣工350年を迎えた玉川上水は、平成15(2003)年8月、江戸、東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、文化財保護法に基づき、国の史跡に指定されました。
東京都水道局は、学識経験者や関係局、地元市等と検討を重ね、平成19年3月、「史跡玉川上水保存管理計画」を策定し、保存管理の長期的指針を定めました。
また、平成21年8月、今後10年間の具体的施策を定める「史跡玉川上水整備活用計画」を策定し、緑に囲まれた土木遺構を良好に保全するとともに、歴史的価値を広く伝え、都民に親しまれる「水と緑の空間」を次世代へ継承していくための取組に着手しています。

玉川上水の流域

羽村の堰から流れる玉川上水は四谷まで全長約43キロメートルにも及びます。その間幾つか大きな流れの変化があります。まず原水が流れる上流部約12キロメートル、そして再生水が流れる開渠部分たる中流部約18キロメートル、そしてほぼ暗渠となる下流部約13キロメートルです。

上流部

羽村の堰の取水口に行くとまず驚くのがその水量です。滔々と流れる清流がとても気持ちがいい。そこから福生市、昭島市、立川市を通り、小平監視所にて原水が東村山上水所に送水されます。カワセミも住む清らかな流れはここまでです。
多摩川羽村取水堰
羽村取水堰地点の多摩川

羽村取水堰
羽村取水堰。この取水口から引き込んだ水が玉川上水となります。

玉川上水第1水門
第1水門です。多摩川から引き込んだ水は、すべてこの水門内に入ります。

玉川上水第2水門
第1水門の少し先にある第2水門。ここで玉川上水に送水する量を調整し、余分な水を水門手前の吐水口から多摩川に戻します。いわば玉川上水の開始地点です。見て下さい、この水量を!!

玉川上水第3水門
羽村取水堰より約500mほど下流にある第3水門。ここで原水の大部分が埋設鉄管によって村山・山口貯水池に送水されます。

第3水門の前後でかなり水量が違います。以下を見比べてみてください。
第2門から第3門までの流れ
第2水門から第3水門までの区間の玉川上水。水量たっぷり。上流部の為かなり澄んでいます。
第三水門以降
第3水門以降、水量が一気に減っています。川底が露出しそうなくらい浅い流れとなり、それが西武拝島線玉川上水駅の少し東側、小平監視所まで続きます。

考えてみると第3水門は取水口よりわずか500mほどです。玉川上水が流れ出したと思ったら、すぐに大部分を貯水池へと送水するわけです。なんで、かほど上流なのか?その理由が、こうして上流まで足を運んでみるとうなずけます。筆者は玉川上水駅は請願院橋より上流を目指しました。前述したように、ここより下流では水が入れ替わり、原水に代わって浄水場で処理された再生水が流れる事になります。ですので、請願院橋で見る流れは、多摩川で分水し、その後量は減るものの原水には違いありません。それでも、やはり羽村の堰付近で見る水に清らかさとは比べ物になりませんでした。上流に進むにつれ、段々と透き通っていく様をつぶさに観察し、感嘆の声を漏らしたほどです。排水などは恐らく流れ込んではこないと思いますが、それでもある程度流れる間には、多少汚れてしまうのでしょう。飲み水として用いるものですから、上流部の澄んだ水を確保する事が正解なのでしょう。

玉川上水開削工事跡標識
福生市指定史跡 「玉川上水開削工事跡」の標識

玉川上水開削工事跡説明板
玉川上水開削工事跡についての説明板。以下抜粋

「玉川上水開削工事跡は、江戸幕府が承応二年(1653)に江戸市民の飲料水の確保を目的として、多摩川より引水し、江戸市中へ配水するために行った開削工事の跡です。開削工事の跡は、この「みずくらいど」公園に残っていますが、この遺構は工事が失敗し、新しい堀を北側に掘り直したため当初計画した堀跡が残されたものです。この付近の土地は、古くから「みずくらいど」と呼びならわされてきました。これは、玉川上水開削のおり、この付近で水が地中に吸い込まれ、工事が失敗した土地であるとの故事により発生したと言われます。事実、承応二年以降に作成された古文書や古絵図には「水喰戸」、「水喰ノ上」の文字が現れます。開削工事の跡は、「みずくらいど公園」の北にある玉川上水五丁溝付近より立川段丘崖線に沿って南へ延び、武蔵野橋公園付近で東へ方向を変え、西武鉄道拝島駅前の玉川上水平和橋の付近まで、約一キロメートルにわたって残存していたと伝えられます。しかし、現在は、みずくらいど公園内及び付近に開削工事の跡が残るのみです。この玉川上水開削工事跡は、近世前期の大規模な土木工事の遺構として、歴史的、学術的に大変貴重です。」

玉川上水水喰土
水喰土堀跡。

水喰土公園看板
水喰土公園標識

水喰土公園
水喰土公園

玉川上水暗渠に
昭島市の美堀橋~中島橋の間で一部暗渠となります。

玉川上水暗渠上遊歩道
この暗渠となっている区間は地上が遊歩道になっています。南側にゴルフ練習場があります。なんでも戦争中このゴルフ練習場は戦闘機の滑走路で、将来滑走路をのばせるように玉川上水に蓋をしたんだそうです。ちなみにこの少し下流、松中橋の手前で「砂川分水」「柴崎分水」の取水口があります。

玉川上水暗渠部分終了
ここで再び開渠となります。

上流から見た小平監視所
西武拝島線玉川上水駅の南口ロータリーから線路沿いに進むと見えてくるのが小平監視所。

小平監視所建物
上流部分はここで終了します。

小平監視所内部案内板
小平監視所の管理所前の案内図です。以下説明部抜粋

「小平監視所は、昭和38年9月から運用しています。上流約12キロメートルの羽村取水所で取水した多摩川の水を東村山浄水場に送るため、玉川上水(注1)の野火止用水と小平分水の分水口を改修して沈砂池(注2)などを備えた小平監視所が造られました。この施設の役割は、上流から流れてくる落ち葉や枯れ枝などを除塵機(注3)で取り除き、また、沈砂池で砂を沈めてゴミや砂のない水をコンクリート管(名称:砂川線導水路、延長約4キロメートル、内側の大きさ:2.3メートル、最大導水量毎秒8.0立方メートル)を利用して、東村山浄水場に送る事です。また、昼夜水量監視や水質監視を行っています。」

(注1)完成 承応3年(1654年)、総延長約43キロメートル(羽村取水口~小平監視所約12キロメートル、小平監視所~四谷大木戸(新宿御苑)約31キロメートル。小平~間橋18キロメートル、浅間橋~大木戸13キロメートル。平成15年に小平監視所を除く開渠部分約30.5キロメートル(面積47.8ヘクタール)が国の史跡に指定された。
(注2)河川水のなかには細かな粒子の土がが含まれているが、その粒子を上流から下流へ遅い速度で流し、重力により細かな粒子の土を沈降させる池です。構造:長さ60メートル・幅7メートル・深さ4メートル、池数:2池、有効容量:1池で1630立方メートル、流速:流量が毎秒8.0立方メートルの時は毎秒0.15メートル、流量が毎秒1.0立方メートルの時は毎秒0.02メートル
(注3)沈砂池の上流と下流に二箇所あり、落ち葉やゴミを自動で取り除きます。

小平監視所内部拡大
もともと野火止用水と小平分水の取水口であった場所を改修して造られた小平監視所ですが、今は野火止用水・小平分水への送水は行われていないようです。

これで上流部は終わりですが、玉川上水駅から上流に向かってサイクリングした際のブログ記事には途中の写真がたくさん載せてあります。お時間が御座いましたらそちらもご参照ください。「玉川上水巡り~玉川上水駅出発編」「玉川上水巡り 見影橋~天王橋編」「玉川上水巡り 一番橋~拝島上水橋編

中流部

小平監視所でこれまで流れていた原水が全て東村山浄水場へ送られ、再生水が流される小平監~浅間橋までの約18キロメートルの区間となります。細かいですが、小平監視所からほんの少し下流から再生水が流れ始めます。再生水は東京都下水道局多摩川上流水再生センター(昭島市)で高度二次処理を施されたものです。約18キロメートル下流の高井戸の浅間橋付近まで流れ、そこから管路で600メートル北の神田川に合流しています。

下流部

約13キロの区間は大部分が暗渠となります。代田橋駅や笹塚駅付近でわずかに続く開渠部分では、都心とは思えぬ清流が顔を見せます。再生水は浅間橋付近で神田川へと流れ込んでしまっていますので、これは湧き水の様です。

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