地域情報

柴崎村から続く立川の歴史

立川市の起源は約1万5千年前の先土器時代に求められます。狩猟生活を営み、一カ所に長く住むことはなかったとされています。集落が形成されるのは縄文時代になってから。ようやく一カ所にとどまりやがて柴崎村の原型が出来上がっていったのです。

村の形成には幾つかの条件が必要です。一つは集落の形成に必要な水、もう一つは地域を鎮守する神社、そして葬祭をとり行い来世を願うお寺です。崖線から湧き出す水を求めて人が集まり、信仰の対象であった諏訪神社の創建、立川唯一の国宝「六面石幢」を有する普済寺の完成によって柴崎村の原型が形成される条件が整ったのです。柴崎村がやがて立川村となり、立川市へと連なっていきます。そして北部で発達した砂川村を編入して現在の立川市となったのです。

原始の立川

立川市ではこれまでのところ21カ所で原始・古代の遺跡が見つかっています。先土器時代から奈良・平安時代にわたって発見されている遺跡の中に、弥生時代のものはまだありません。先土器時代の遺跡は砂川地区に多く、縄文時代以降の遺跡は多摩川の段丘上に多いようです。

先土器時代

立川の最初の住民は今から10,000年以上も前に黒曜石などの石器を使い狩猟生活を営んでいたようです。砂川地区を中心に槍の先に用いられたであろう石器などが発見されています。殿ヶ谷神殿遺跡や松中ツ原遺跡など五日市街道に沿うようにして幾つも見つかっています。

縄文時代

今から約1万3000年前から2500年前までの間、ほぼ日本列島全域で縄文土器と呼ばれる独特な土器をもつ文化が栄えました。縄文時代の人々は竪穴式住居に住み、土器とともに石や木、骨、角などで作った道具を使って暮らしていました。立川市内では柴崎町四丁目の大和田遺跡や錦町4丁目から羽衣町3丁目にかけての向郷遺跡(むかいごういせき)で縄文時代中期(約5000年~4000年前)の大規模な集落が発見されています。本格的な農業はまだ行われず、狩猟・採集の生活をしていたようです。

大和田遺跡説明版
大和田遺跡説明版は柴崎町四丁目の信号を南に少し下り、西に伸びる道を進むと見つける事ができます。道路沿いではなく、敷地に建てられているので、注意して探さないと見つかりません。

大和田遺跡

大和田遺跡は多摩川を見下ろす段丘上に広がる遺跡です。昭和29年以来6階にわたり、大がかりな調査が行われ縄文時代早期(8000年前)竪穴式住居跡4軒、中期(約4500年前)の住居跡19軒、奈良・平安時代(約1300~1000年前)の住居跡5軒、平安時代の掘建柱建物(ほったてはしらたてもの)が1棟発見されています。

向郷遺跡(むかいごういせき)

錦町四丁目から羽衣町三丁目にかけての段丘上に広がる大変範囲の広い遺跡です。段丘の南側には、湧き水が集まって流れる矢川があり、水の確保が容易な住み易い場所だったようです。昭和20年代以降30回以上の発掘調査が行われ、70軒以上の縄文時代中期の住居跡が見つかっています。多くの縄文土器や石器も見つかり、先土器時代の石器もあわせて発見されました。

柴崎村の誕生

古墳時代には、柴崎町四丁目付近に古墳時代後期(6~7世紀)の円墳が築かれました。また、奈良・平安時代(8~11世紀)には、下大和田遺跡(柴崎町)、台の下遺跡(富士見町)などに集落が営まれました。特に、下大和田遺跡からは、高床式の建物跡も見つかっています。弘仁2(811)年には、柴崎町の諏訪神社(平成6年焼失、平成14年再建)が祀られ、このころ柴崎村(旧立川市)の原形ができたと考えられています。

下大和田遺跡

柴崎町三丁目と四丁目に広がる遺跡で、大和田遺跡より一段高い段丘面に位置しています。約1300~1000年前の奈良・平安時代の竪穴住居跡が5軒、掘立柱建物が6棟発見されています。また、土師器(はじき)という赤い素焼きの土器や須恵器(すえき)という釜で焼いた固い土器が出土しています。

立川崖線と集落

現在の立川市は旧柴崎村と旧砂川村が合併した形で形成されています。(厳密には柴崎村が立川市の原型となりそこに砂川村が編入されましたが、その辺の事情は「立川北部の砂川村と玉川上水の関係」に譲ります。それぞれの村が形成された経緯は少し異なり、柴崎村はかなり古い時期からその原型が生まれていましたが、砂川村については先土器時代の化石が見つかったりはしていますが、移動しながらの狩猟生活を営み、砂川村に繋がるような集落はまだなかったと推測されます。
砂川村は玉川上水開削によって砂川新田が開発され、その発展と共に形成されたという背景があります。当時砂川一帯には残堀川という野川しかなく、その川とて大雨によって暴れたり、川の氾濫によって流れを変えるものだったそうです。しかも「砂の川」と言われるような水量の少なさでは、村と呼べるほどの集落はできなかったのでしょう。砂川の地名の由来となった当時の残堀川では水の確保もままならず、苦しい生活をしていたのではないでしょうか。

これに対して、旧柴崎村の一帯は多摩川の河岸段丘となっており、立川崖線と呼ばれる崖から水が湧き出していました。今のように水道が発達している時代ではありません。水はそれこそ生命の源とも呼べる貴重な物だったはずです。その水を求めて人が集まり、集落が出来上がったのでしょう。
そうした集落が発展するためには農耕を営む必要がありました。崖線から湧き出す水は小川となり、その川の水を使って古代の農耕が営まれたのでしょう。

もちろん多摩川という大きな川が流れていたのでかつての人々もその水を利用した事でしょう。しかし、いざ大雨が降れば、川は氾濫し生命をも脅かしたはずです。多摩川は過去何度か大きく流れを変えてきました。川が氾濫するたびに生命が脅かされ、住いや財産を失くしてはとても村など形成できません。
そうした観点からすると、崖の上ならいざと言う時もすぐには被害を受けにくく、避難が容易、しかも貴重な水もすぐ崖下から調達できたわけですから、崖の上はまさに集落の形成にうってつけ、より安心して暮らせる環境だった事でしょう。
立川崖線の一部である青柳崖線下にあるママ下湧水では、その豊富に湧き出る湧水によって今もなお稲作に利用されています。国立市という落ち着いた高級感の漂う街並みから一歩踏み出すと広がる田園風景は、まさに崖線によって生み出されたものです。

諏訪神社の創建

弘仁2年(811)信州諏訪大社を勧請して現在の立川市柴崎町1丁目に諏訪神社が創建されました。毎年8月の最終週に行われる立川夏祭りはこの諏訪神社のお祭りを起源としています。柴崎の鎮守として当時の人々の信仰を集めました。明治41年11月27日八幡神社を合祀し、次いで明治43年2月12日、浅間神社を合祀したと言われています。

中世

平安時代末期頃、立川氏という武士が立川周辺に勢力を持っていました。吾妻鏡によるとこの立川氏は暦仁元年(1238)に、鎌倉幕府の将軍に随って京へ上ったという記録が残っています。そして当時立川周辺を領有した立川氏が今の普済寺に城を作ったと事から立川市となったという説もあるのです。この立川氏は鎌倉時代~室町時代にかけての古文書を今に伝えています。

  • 1252(建長4)年立川氏の氏神として柴崎町に八幡神社が建てられる。
  • 1353(文和2)年柴崎町に普済寺(平成7年焼失、平成16年再建)が建立されました。
  • 1361(延文6)年普済寺に六面石幢が造られています。この六面石幢は現在のところ立川市内唯一の国宝となっております。
  • 1455(享徳4)年第一次立河原の合戦起きる。
  • 1504(永正元)年第二次立河原の合戦起きる。

近世

戦国大名の北条氏は、最後まで豊臣秀吉に抵抗していたため天正18年(西暦1590年)、秀吉によって攻め滅ぼされてしまいます。この時、立川氏は北条氏の配下となっていたため、領地を失って浪人となりました。 その後、関東には徳川家康が入国し、慶長8年(1603)江戸幕府が開かれました。柴崎村は幕府の天領(直轄地)に組み入れられ、伊豆の韮山代官所の支配を受けようになったのです。砂川村が形成されたのはまさにこの頃です。江戸幕府が開かれてから6年後、狭山丘陵の麓「岸村」(現在の武蔵村山市)に住む「村野三右衛門」が幕府に砂川新田の開発を願い出、許可されたところから始まります。ただし、実際に開発が始まり、砂川村の基礎が形成されるのはさらに約50年経った玉川上水の開通後の事になります。

  • 1586(天正14)年八幡神社に本地仏像を立河照重内女おねねが奉納する。
  • 1590(天正18)年立川氏滅びる
  • 1596(慶長元)年家康、青梅、五日市両街道を整備する。
  • 1600(慶長5)年甲州街道起工、同9年完成。慶長年間から岸村(現武蔵村山市岸)の百姓村野三右衛門が砂川新田(現一番町から幸町)の開墾を始め、寛永年間に入って居住を始める。
  • 1627(寛永4)年ころになると、市の北部地域で本格的に開発が行われ、砂川新田が開かれました。
  • 1629(寛永6)年砂川の阿豆佐味天神社建てられる。
  • 1633(寛永10)年砂川新田尾張藩鷹場となる。(1693=元禄6年廃止)
  • 1654(承応3)年玉川上水が開通
  • 1657(明暦3)年砂川分水が開通
  • 1688(貞享5)年柴崎分水訴願状出す。
  • 1689(元禄2)年砂川で検地が行われる。戸数175戸、畑229町5反4畝16歩、萱野73町4反1歩、林39町6畝27歩の検地内訳である。
  • 1688年から1704年まで(元禄年間)このころ諏訪神社に伝わる獅子舞が始まる。
  • 1716年から1736年まで(享保年間)殿ケ谷分水できる。徳川吉宗の新田開発政策により、砂川新田(現幸町)、砂川前新田(現若葉町)、殿ケ谷新田、宮沢新田、中里新田(現西砂町)、榎戸弁天新田、八軒新田、芋窪新田(現幸町、栄町)の開墾が始まる。
  • 1717(享保2)年砂川新田再び尾張藩鷹場となる。
  • 1736(元文元)年砂川新田が砂川村(旧一番組から八番組)になる
  • 1737(元文2)年柴崎分水が開通
  • 1867(慶応3)年砂川村は砂川、砂川前両新田と合併する

近代

明治時代を迎えると、立川は急速に近代化します。大正11年(1922)には立川飛行場(現国営昭和記念公園)が開設され、村は大きく発展しました。人口を大きく増やした立川村は大正12年(1923)町制を施行して立川町となるのです。主要な産業はまだ農業でしたが、立川駅の北側には商店が立ち並び、人口も大きく増え、まちは発展していきました。その一方で、軍事施設の数も多く、太平洋戦争では空襲を受け、多くの被害を出す事になるのです。

  • 1860(安政7)年常陸の国(現茨城県)の蚕影神社、阿豆佐味天神社境内に分社される。
  • 1868(明治元)年柴崎村、砂川村が韮山県に編入される。
  • 1870(明治3)年普済寺に郷学校開設(現市立第一小学校)。玉川上水の水運業始まる。
  • 1871(明治4)年柴崎村、砂川村が神奈川県に編入される。
  • 1872(明治5)年普済寺の郷学校がぐ頴学舎と改称。砂川村、流泉寺に西砂川学校(現市立第九小学校)開設。衛生上の理由で玉川上水の水運業廃止される。
  • 1874(明治7)年砂川5番の私塾が中砂川学校に、砂川8番の村立郷学校「共同学舎」が東砂川学校となる。
  • 1875(明治8)年廃仏毀釈により、満願寺廃寺となる。
  • 1878(明治11)年ぐ頴学舎、柴崎学校と改称。郡制度施行。柴崎村と砂川村は北多摩郡に編入。
  • 1881(明治14)年柴崎村を立川村と改め、柴崎学校を立川学校と改称。
  • 1884(明治17)年立川村以西拝島村まで10か村が連合、役場を中神村におく。
  • 1889(明治22)年市制・町村制施行。立川村は独立村となる。普済寺・心源庵を借りうけ、立川村役場を建て村会を開設。甲武鉄道(現中央線)の開通。立川停車場ができる。
  • 1893(明治26)年西、南、北多摩郡の三多摩を神奈川県から東京府に移管。
  • 1894(明治27)年青梅鉄道開通。
  • 1900(明治33)年中砂川学校と東砂川学校が一つになり砂川小学校(現市立第八小学校)となる。
  • 1901(明治34)年東京府立第二中学校(現都立立川高校)開校。
  • 1902(明治35)年立川郵便局が3等集配局として開局。
  • 1906(明治39)年甲武鉄道国有となり中央線と改称。
  • 1907(明治40)年八幡神社本殿を諏訪神社に移築。
  • 1910(明治43)年砂川製糸業閉鎖。
  • 1915(大正4)年立川村に電気供給開始。
  • 1916(大正5)年東京府原蚕種製造所、立川村に設置される。
  • 1920(大正9)年東京府農事試験場(現農業試験場)、豊多摩郡中野町から立川に移転開始(大正13年完了)。
  • 1921(大正10)年立川村に電話が開通。
  • 1922(大正11)年立川飛行場開設、陸軍飛行第五大隊移転。
  • 1923(大正12)年関東大震災。立川村、町制を施行。青梅鉄道電車運転を開始。
  • 1924(大正13)年立川町の町制施行を記念して、立川飛行場で自動車レースが開催される。
  • 1925(大正14)年立川女学校(現立川女子高校)開校。立川で最初の映画館「立川キネマ」開館。
  • 1926(大正15)年日野橋が開通。
  • 1927(昭和2)年立川飛行場にソ連親善機飛来(最初の外国機)。この後、外国機の飛来が相次ぎ、立川飛行場は国際空港となる。
  • 1928(昭和3)年陸軍航空本部技術部、立川に設置。
  • 1929(昭和4)年中央線立川まで電化。南武鉄道開通。市立第二小学校開校。日本航空輸送株式会社が立川-大阪間で日本最初の定期航空を開始。
  • 1930(昭和5)年五日市鉄道が立川まで開通。立川駅南口開設。
  • 1936(昭和11)年東京府健康相談所(現立川保健所)設置。
  • 1937(昭和12)年市立第三小学校開校。朝日新聞社の神風号が立川飛行場を出発し、ロンドンまで飛行。飛行時間の世界記録を樹立。
  • 1940(昭和15)年立川町、市制を施行(立川市になる)。市立第四小学校開校。市立第五小学校開校。昭和第一工業高校(現昭和第一学園高校)開校。
  • 1941(昭和16)年太平洋戦争始まる。
  • 1942(昭和17)年立川警察署を開設。富士見・柴崎・錦・羽衣・曙・高松・緑の各町丁名が設定される。「立川市公報」創刊。
  • 1943(昭和18)年東京都制施行される。立川消防署開設。
  • 1944(昭和19)年青梅、南武、五日市鉄道、日本国有鉄道に買収される。立川税務署開設。地番改正実施。
  • 1945(昭和20)年立川市は13回の空襲を受け、大きな被害を受ける。太平洋戦争終わる。米軍進駐。至誠学舎本部を池袋から立川市に移転。

現代

戦後、立川飛行場はアメリカ軍の基地となり、昭和52年に返還されるまでは、「基地のまち」と呼ばれました。昭和29年、砂川村は町制を施行して砂川町となり、昭和38年に立川市と合併、立川市はほぼ現在の姿となったのです。現在の立川市このように旧柴崎村と砂川村が統合されたもので、今回はそのうち柴崎村について書いております。砂川村の成り立ちや歴史については「立川北部の砂川村と玉川上水の関係」をご参照ください。その後立川基地が全面返還されと、跡地は国営昭和記念公園、広域防災基地、ファーレ立川などに生まれ変わりました。

立川市は中央線立川駅を中心として発展を遂げ、乗降者数で全国有数の交通のかなめとしてたくさんの人で賑わうようになります。平成に入り、南北をつなぐ多摩モノレールの開通したのも大きな変化です。これとともに立川駅南口の開発もすすみ、商業都市としてますます発展していきます。これら多摩モノレールの沿線にIKEAやららぽーと立川立飛などの大型商業施設ができたのも記憶に新しいところです。

  • 1946(昭和21)年都立立川母子寮設置。
  • 1947(昭和22)年市立第一中学校開校。市立第二中学校開校。砂川村立砂川中学校(現市立第四中学校)開校。立川市公民館建設。立川区検察庁設置。立川簡易裁判所開設。立川専門学校(現都立短期大学)開校。立川排水路通水(昭和24年緑川と命名)。
  • 1948(昭和23)年立川区検察庁庁舎完成。立川市立高校(現都立北多摩高校)開校。立川市の民家へガスの供給開始。
  • 1949(昭和24)年市営火葬場完成。立川電報電話局発足。都立柴崎保育園開園。
  • 1950(昭和25)年市立第六小学校開校。市教育委員会設置。東京都立川児童相談所設立。
  • 1951(昭和26)年市立第三中学校開校。福祉事務所設置。立川市で上水道事業開始。市営競輪場開設。自衛隊立川市に駐屯。立川市で小学校の完全給食実施。
  • 1952(昭和27)年市営塵芥焼却場建設。立川地区共立病院組合設立。東京税関立川出張所発足。立川簡易保育所開設。
  • 1954(昭和29)年砂川村、町制を施行。緑川改修工事完成。
  • 1955(昭和30)年立川市国民健康保険制度発足。砂川町で立川基地拡張反対闘争展開。
  • 1957(昭和32)年立川市民歌決まる。市営野球場完成。
  • 1958(昭和33)年立川市庁舎落成。市立第七小学校開校。砂川町で上水道事業開始。
  • 1959(昭和34)年市営陸上競技場第3種公認。立川市、サンバーナディノ市(アメリカ合衆国カリフォルニア州)と姉妹市締結。
  • 1960(昭和35)年立川市議会、砂川町議会に合併申し入れ。市立第一小学校防音校舎落成。緑川覆蓋工事実施。
  • 1961(昭和36)年東京消防庁第8方面本部立川市高松町に設置。全国初の女性市議会議長が選ばれる。立川市で下水道事業開始。
  • 1962(昭和37)年立川市、国立町(現国立市)、砂川町(現立川市)、村山町(現武蔵村山市)、大和町(現東大和市)の1市4町で交通安全都市を宣言、毎月20日を交通安全日と定める。姉妹市サンバーナディノ市と交換高校生制度を開始。立川駅東踏切りの地下道が完成。都市計画街路2等2類2号線が中央線と立体交差する陸橋ふじみ橋完成。諏訪の森公園遊園地完成。
  • 1963(昭和38)年立川市、砂川町の合併なる。立川市消防団が結成され、第1回の水防訓練が立川市、
    昭島市、国立町(現国立市)の2市1町と立川消防署の合同で行われる。砂川土地収用問題で東京地方裁判所から判決下る。
  • 1977(昭和52)年立川基地が全面返還。
  • 1982(昭和57)年立川駅舎、立川駅ビル、立川駅南北自由通路完成。立川駅連絡所開設。
  • 1983(昭和58)年国営昭和記念公園が一部オープン。
  • 1998(平成10)年多摩都市モノレール北区間開業。
  • 2000(平成12)年多摩都市モノレール全線開業。
  • 2009(平成21)年東京地方裁判所、家庭裁判所、東京地方検察庁の八王子支部、八王子拘置所などが、立川基地跡地地区(緑町)に移転 。
  • 2010(平成22)年新庁舎が落成、業務開始(錦町3丁目2番26号から泉町1156番地の9に移転
  • 2013(平成25)年旧庁舎跡地に子ども未来センターグランドオープン、立川まんがぱーくオープン
  • 2014(平成26)年IKEA立川グランドオープン
  • 2015(平成27)年ららぽーと立川立飛グランドオープン

多摩モノレール

平成10年11月27日に上北台~立川北駅間の10.6 kmで開通した多摩モノレールはその二年後の2000年(平成12年)1月10日立川北~多摩センター間で開通し現在に至ります。南北をつなぐ貴重な路線として、通勤・通学に利用されています。玉川上水駅で西武拝島線に、立川北・立川南駅でJR中央線に、高幡不動駅で京王高尾線・京王動物園線に、多摩センター駅で京王相模原線・小田急多摩線にそれぞれ連絡しています。

延伸計画

多摩モノレールには幾つかの延伸計画があります。八王子方面への延伸、町田方面への延伸、そして上北台駅以北箱根ヶ崎駅への延伸の三つがあります。このうち町田延伸・箱根ヶ崎延伸の二つが最も実現に近い延伸計画と位置づけられています。2016年度は、多摩モノレー箱根ヶ崎延伸ルートとなる新青梅街道における全ての区間(5区間全て)で工事認可を取得、現在モノレールルートとして想定されている「新青梅街道」の拡幅拡張計画および工事が進められている状態です。新青梅街道沿いには収容された土地が単管で囲われ、いよいよ実現に向けて動き出している様子がうかがえます。

多摩モノレールと芋窪街道

多摩モノレール開通前、芋窪街道は度々交通渋滞を引き起こしました。帰宅時間帯ともなると五日市街道との交差点(今の砂川七番駅)より北側ではほとんど車が進まず、西武拝島線の線路を通過するのにゆうに30分以上はかかったように記憶しています。空いていればわずか数分で通過できる距離にもかかわらずです。
というのも、当時西武拝島線玉川上水駅前には踏切があって、線路の南北を移動するにはその踏切を渡らなければなりませんでした。帰宅時間帯には鉄道の本数も増えますから、踏切はピクリとも動きません。まさに開かずの踏切と化し、渋滞の原因となっていたのです。
それが多摩モノレールの開通に伴い道路が線路下を通るようになると、自動車は鉄道の影響を受けずに南北を通行できるようになったのです。もちろんそれまでは歩いて線路を往来できた歩行者にとってはちょっと面倒くさくなってしまいましたが、交通渋滞はなくなりました。
ただ、モノレール敷設のために芋窪街道を拡幅したため、街道沿いに並んだたくさんの商店は姿を消してしまいました。しかも歩行者が南北を移動するのが大変になった為、南北の往来は途絶え、玉川上水駅周辺は南北でほぼ分断されてしまったのです。玉川上水駅北口は駅前の再開発に伴い公団団地はできるは、公園は整備されるはで、見違えるような街並みに変わり、活気も出ました。反対に南口の方はめっきり人通りも少なくなり、なんだか寂れてしまったのです。

多摩モノレールの開通によって通勤・通学が便利になったのは確かです。モノレールはとにかく時間に正確です。時間通りに駅に到着し、乗り換えもスムーズ。それまで主な交通手段であったバスは前述したようにしばしば交通渋滞に巻き込まれてしまい、時間が計算できません。遅刻しないために、普段より早めに家を出発しなければなりませんでした。開通後着実に利用者も増え、今では書く事の出来ない交通手段として、地元に定着しています。

旧立川基地跡地の活用

近代以降基地のまちとして知られるようになった立川市では基地がアメリカから返還されて以降、その広大な跡地の活用が重要なテーマとなりました。国営昭和記念公園の整備、国や市の行政機関の移設など再開発が進められてきたエリアです。

国営昭和記念公園

立川市から昭島市にまたがる国営公園です。昭和天皇御在位五十年記念事業の一環として、現在及び将来を担う国民が自然的環境の中で健全な心身を育み、英知を養う場とするために、戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川市と昭島市の両市にまたがる立川基地跡地のうち、180haを記念公園として建設することが閣議決定され、「緑の回復と人間性の向上」をテーマに1978年(昭和53年)度より国土交通省の手で施設整備が進められてきました。1983年(昭和58年)10月26日、昭和天皇臨席のもとに約70haで開園した後、レインボープールや子供の森、日本庭園、砂川口、盆栽苑等次々と施設が整備され、2005年(平成17年)11月にはみどりの文化ゾーンが共用され、同時に昭和天皇記念館が開館しました。

入口は全部で八カ所。立川市内に七か所、昭島市内には一箇所です。立川市内の入口のうち四つは公園南東部に集中しています。「あけぼの口」、「立川口」「昭和記念館口」「高松口」がその四つ。立川駅からはあけぼの口が一番近く徒歩約10分です。次に青梅線西立川駅にある「西立川口」でここは駅と昭和記念公園が直結しています。徒歩約2分。レインボープールに行きたい人はここが便利。青梅線東中神駅より徒歩約10分の所にあるのが「昭島口」。そして公園北部にあるのが「砂川口」で西武拝島線武蔵砂川駅より徒歩約20分。「玉川上水口」は立川市と昭島市の境目付近にあり、武蔵砂川駅より徒歩約25分です。高松口と玉川上水口は新しくできた入口です。

立川市役所移転

長らく立川市錦町にあった市役所が2010(平成22)年移転しました。新住所は立川市泉町1156-9。旧庁舎跡地は現在「子ども未来センター」「立川まんがぱーく」及び有料駐車場として利用されています。それから約3年半後の2013年(平成25年)11月18日をもって立川登記所(東京法務局立川出張所)は立川市緑町4-2の新庁舎(立川地方合同庁舎)6Fに移転し、同年11月25日立川税務署も新庁舎へと移転しました。

かつて立川の南口は市役所や登記所など行政機関が集まる立川市の心臓部とも言えるエリアでした。
しかし、市庁舎の移転や合同庁舎の移転によって、北口の立川基地跡地に市行政の中心が移動しました。

立川広域防災基地

立川広域防災基地は、緑町から泉町にかけての旧立川基地跡地を整備したエリアにあります。
南関東直下地震(首都直下地震)など大規模災害発生時に広域的対応を行う緊急拠点となります。
立川飛行場と内閣府災害対策本部予備施設を中心に、自衛隊・東京消防庁・警視庁・医療機関等の施設が集められ、内閣総理大臣を本部長とする緊急災害対策本部が設置可能な重要な基地となっているのです。
国立病院機構災害医療センターは、災害派遣医療チーム(DMAT)の研修を行う災害拠点病院の中の拠点であり、東日本大震災でも全国のDMATの総司令部として機能しました。
さらに、裁判所などの国の施設も、この基地周辺に集約されています。

栄緑地・西町緑地・北緑地

立川基地の時代には、ここは物資の輸送に使われていた引込線でした。基地跡地利用の第一歩として整備され、昭和55年に遊歩道として完成しました。旧線路は国立市北、国分寺市西町、立川市栄町を通っていたため、それぞれの場所で名称を変えていますが、一本の遊歩道と考えていいです。

地域と共に

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