地域情報

立川北部の砂川村と玉川上水の関係

立川市はかつての柴崎村と砂川村からなります。柴崎村が立川村に改変されその後立川市となった後、砂川村から改変された砂川町が編入し今に至るわけです。集落は水のあるところに生まれます。生存にとって欠かせない水の確保は絶対条件だったためでしょう。

立川市に人が住み始めたのは、約1万5千年前と考えられています。また、縄文時代中期(約 5千年前)になると、向郷遺跡(錦町・羽衣町)や大和田遺跡(柴崎町)で、大きな集落が営まれるようになりました。錦町、羽衣町そして柴崎町はちょうど立川崖線によって水が湧き出す地域です。水を求めて人が集まり、やがて集落を形成し、やがて村として発展を遂げたのが柴崎村です。

砂川村が形成されたのは江戸幕府が開かれ玉川上水が開削されてからです。玉川上水によってもたらされた水によって新田開発が行われにつれ発展したのです。玉川上水が完成する前にも残堀川によって水はもたらされたようですが、水量も少なく広範囲で耕作が行われたわけではなかったようです。砂川の歴史にとって玉川上水は切っても切れない関係と言えるのです。

砂川の由来

玉川上水開削以前の残堀川は、狭山丘陵の湧き水を水源として南東に流れ、多摩川に注ぐ清流だったそうです。乾期には川底が現れ、雨期には護岸もないので暴れる川でもあったようです。いつも枯れたように水量が少なく砂底が見えるから「砂の川」と呼ばれ、それが砂川の地名になりました。

残堀川は蛇が掘る川(蛇堀川)から「残堀川」と呼ばれるようになったようです。現在は瑞穂町にある狭山池を水源として上流ではわずかに水が流れていますが、日照りが続き水源である狭山池の水位が下がると、そのわずかな流れさえも止んでしまいます。現在の残堀川はその名の通り「堀が残る」だけの川となっていて、今も昔も枯れたような川なのですね。ただ面白い事に多摩川に合流する直前、つまり下流では今も清流が流れ、川の宝石と呼ばれるカワセミの姿も見られます。春は桜並木が大変綺麗で、見ごろを迎えるとたくさんの人達が訪れのです。

砂川村の形成と新田開発

砂川村の形成は玉川上水の完成と密接に関わっている事は前述しました。関東ローム層の赤土は乾燥すると砂埃を巻き上げ「赤っ風」と呼ばれました。そんな乾いた大地を玉川上水が潤していったのです。

砂川の開発

砂川の開発は狭山丘陵の麓「岸村」(現在の武蔵村山市)に住む「村野三右衛門」が幕府に願い出、許可されたところから始まります。これは慶長8(1603)年徳川家康が徳川家康が駿河から江戸へ入府し江戸幕府を開いてからわずか6年後の事で、しばらくの間は開発は進まなかったようです。

阿豆佐味天神社・龍泉寺

1629年(寛永6)年阿豆佐味天神社が勧請され、以後砂川地域の鎮守の神として地域の信仰を集めました。そして、それから約20年後の1650( 慶安3)年流泉寺が建立され、村形成の基礎が整いました。阿豆佐味天神社は開拓者である村野家の守護神社であった事から今の西多摩郡瑞穂町から勧請されたのです。現在は境内社である蚕影神社(こかげじんじゃ)が猫返し神社として有名です。猫好きな人達には外せないパワースポットですので時間があれば「砂川村の鎮守であった立川の阿豆佐味天神社」で由来を確認してみてください。

砂川分水と砂川新田

新田開発が本格化したのは玉川上水の完成に伴い明暦3(1657)年、「砂川分水(後に幾つかの分水を繋げて砂川用水となる)」を引き込むことが許可されたためです。砂川分水は取水口のある天王橋から五日市街道に沿って開通されました。残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三、四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田は、砂川用水の開通により現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発出来るようになったのです。その後発展を続けた「砂川新田」はその名称をを変え「砂川村」になりました。砂川新田を支えた砂川分水はその後他の分水と統合され現在は砂川用水としてその姿を残します。当初天王橋にあった取水口も移動し、昭島市の松中橋北側に柴崎分水の取水口と並んで設置されています。「砂川村の鎮守であった立川の阿豆佐味天神社」に詳しく記してあります。

砂川村

天王橋から五日市街道に沿って引かれた一里ほどの砂川分水、そしてその分水と共に形成された砂川村はその取水口である天王橋から北東方向に伸びる細長い村でした。砂川村は年貢徴収の単位として西から順に「一番」「二番」「三番」という風に番号がふられました。当初は全部で一番組~八番組までの集落があり、一番から四番までが上郷、五番から八番までを下郷と呼び、その郷には「小名主」が置かれて「名主」の名代としたそうです。各組には組頭が置かれました。その後さらに東へと開墾が進めらますが、砂川新田が砂川村となった事から、その東を新たに「砂川新田」、さらに東を「砂川前新田」と呼びました。それらが後に「九番」「十番」となりました。こうした呼び名は今も残り、バス停や駅名などでも確認できます。多摩モノレール「砂川七番駅」がわかりやすいですね。私が子供のころは自治会主催の運動会などで「四番組」とか「五番組」などが対抗戦形式で競いあったのを覚えています。

五日市街道沿いの短冊形敷地

旧砂川村は五日市街道から短冊のように縦長の敷地を持つ家が立ち並んでいます。街道沿いに屋敷林に囲われた屋敷部分(母屋・土蔵・物置など)があり、その奥に農地と雑木林が広がっています。外見上の特徴は立派なけやきの木が凛として立っていることです。夏の日差しを避け、冬の北風を防ぐためにケヤキやカシなどが植えられたのです。
昔ながらの古い造りの家はかなり減ってしまいましたが、佇まいは今も残ります。農家の同級生の家に遊びに行くと、玄関に辿り着くまでのアプローチがとにかく長い。もちろん遊びに行く約束をしているのですから、臆面なく入っていいものですが、どうも気おくれして苦手でしたね。こうした五日市街道沿いのお家は、すなわち地主さんでもあるわけですから、長じて商売用のチラシをポスティングしようにも、門塀にポストがないと、さすがに面識のないお家だと敷地内に入り込んで玄関ポストに入れるのははばかられます。

砂川町は立川市に編入

玉川用水と共に発展を遂げた砂川村はその後殿ヶ谷新田・宮沢新田・中里新田・芋窪新田・八軒新田・榎戸弁天新田を組み入れます。そして明治22(1889)年町村制施行により神奈川県北多摩郡砂川村となり、明治26年(1893)年には北多摩郡が南多摩郡、西多摩郡とともに東京府へ編入され、昭和29年(1954)年町制施行し砂川町となったのです。この時立川村はすでに立川市となっており、昭和38(1963)年立川市に編入されました。立川市の元となった柴崎村については「柴崎村から続く立川の歴史」に詳しく記してあります。

砂川闘争について

大正11年(1922年)に開設された立川飛行場は戦後立川陸軍航空工廠と一つになりアメリカ軍の立川基地となりました。その立川基地の拡張を公表した事から起こった住民運動が砂川闘争です。1955年から1960年にかけて住民だけでなく砂川町議会も巻き込んだ基地拡張反対運動が続いたのです。そうした中起きた砂川事件と言う言葉は私の子供のころも耳にしました。どんなものであったのかは当時知りませんでしたが、野球少年であった筆者が普段練習していた小さな球場のあたりで起こったのだと上級生が話していたのを覚えています。

結局立川基地の拡張は中止され、昭和52年(1977年)立川基地はアメリカ軍から日本へと返還されました。立川基地の跡地は現在昭和記念公園が整備され、地方裁判所などの行政機関が集まるエリアとなりました。また種変エリアの開発も進み、IKEAやららぽーとなどの商業施設も作られています。

ちなみに、中央線から立川飛行場に引かれていた鉄道の跡地は「栄緑地」「西町緑地」「北緑地」として市民の憩いの場となっております。

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